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第3話 写真を撮るたび、知らない子供が一人増える

last update publish date: 2026-09-23 12:32:53

第3話 写真を撮るたび、知らない子供が一人増える

 最初の写真では、その少年は遠くに立っていた。

 山あいの湖を背にして、三人家族が並んでいる。父親の高橋直樹が右、妻の由美が左、その間で十歳の娘・結衣が両手を広げて笑っていた。

 よく晴れた五月の午後だった。

 写真だけを見れば、ごく普通の家族旅行にしか見えない。

 ただ、直樹たちから二十メートルほど離れた遊歩道の脇に、一人の少年が立っていた。

 年齢は七、八歳ほどだろうか。

 白い半袖のシャツに紺色の短いズボンをはき、こちらを向いている。

 顔までは判別できない。

 由美がその少年の存在に気づいたのは、旅行から帰った翌日の夜だった。

「ねえ、この子、誰だと思う?」

 夕食後、スマートフォンを見ていた由美が夫へ画面を差し出した。

 直樹はテレビの音量を下げ、写真を拡大した。

「たまたま写り込んだ子だろ。観光地なんだから、ほかにも家族連れはいたじゃないか」

「でも、このとき周りに人はいなかったと思うんだけど」

「全員覚えてるわけじゃないよ。結衣が写真撮るっていうから、俺もカメラしか見てなかったし」

「そうかな」

「そうだよ。気にしすぎ」

 直樹はそう言ってスマートフォンを返した。

 由美も、そのときは納得した。

 旅行先は関東地方某県の山間部にある大きな湖だった。

 観光地として知られている一方、湖の奥には現在使われていない旧道や古い橋が残っており、夜になると「子供の声が聞こえる」「ガードレールの外側に人が立っている」などの噂が絶えない場所でもあった。

 全国放送の心霊番組で取り上げられたこともあるらしい。

 もっとも、高橋家が出かけたのは真っ昼間だった。

 心霊スポットを見物しに行ったわけでもなく、目的は湖畔の遊歩道と近くの農産物直売所だった。

 だから、由美も数日後には写真の少年のことなど忘れていた。

 二枚目の写真を見るまでは。

     ◇

 二枚目は、自宅の庭で撮ったものだった。

 旅行から一週間後の日曜日、結衣が学校で育てていたミニトマトの苗を鉢へ植え替えた。

「お母さん、写真撮って。夏休みの自由研究に使うかもしれないから」

「まだ五月でしょう。ずいぶん気が早い自由研究ね」

「去年、最後の一週間で泣いたから、今年は早くやるの」

「それは立派な反省だけど、トマトを植えただけで自由研究が完成すると思わないでね」

 そんなやり取りをしながら、由美は鉢の横でしゃがむ娘を撮った。

 その日の夜、結衣が写真を確認していて言った。

「お母さん、この子、旅行のときにもいなかった?」

 由美は娘のスマートフォンを覗き込んだ。

 庭の奥。

 低い生け垣の向こうに、少年が立っていた。

 白いシャツ。

 紺色の短いズボン。

 今度は距離が近かった。

 顔はまだはっきりしない。

「これ……」

 由美は旅行の写真を探した。

 二枚を並べる。

 直樹も呼んだ。

「同じ子に見える?」

「いや、でも……服は似てるな」

「似てるどころじゃないでしょう」

「子供の白いシャツなんて珍しくないよ」

「じゃあ、なんでうちの庭にいるの?」

 直樹は答えられなかった。

 高橋家は住宅街の一戸建てで、庭の向こうには細い市道が通っている。子供が歩いていても不思議ではないが、生け垣越しにこちらをじっと見つめているとなれば話は違う。

「近所の子じゃないのか?」

「私、見たことない」

「俺だって近所の子を全部知ってるわけじゃない」

「じゃあ明日、学校で結衣に聞いてもらおうか」

「やめなよ」

 直樹の返事が思いのほか強かった。

 由美が夫を見る。

「どうして?」

「たまたま写った子を、幽霊みたいに騒いだらかわいそうだろ。本人だったらどうするんだ」

「私、幽霊なんて言ってないじゃない」

「顔に書いてあるよ」

 直樹は写真から目を逸らした。

 由美には、その態度が妙に引っかかった。

     ◇

 三枚目は、結衣の学校で撮られた。

 六月最初の土曜日、授業参観のあとに保護者と児童が一緒に校庭の花壇を整備する行事があった。

 終了後、担任教師が何組かの家族を撮影してくれた。

 高橋家も三人で並んだ。

 その写真が学校の保護者向け共有ページへ掲載されたのは、翌週だった。

 由美は台所で夕食を作りながら確認し、持っていた菜箸を落とした。

「直樹」

 夫はまだ帰宅していなかった。

 由美は電話をかけた。

「今どこ?」

『会社出たところ。どうした?』

「写真。また写ってる」

 電話の向こうが静かになった。

『どの写真?』

「学校の」

『……結衣は?』

「二階。宿題してる」

『見せるな』

「ねえ、やっぱり何か知ってるの?」

『いいから、結衣には見せるな。今帰るから』

 通話が切れた。

 直樹が帰宅するまでの四十分間、由美は何度もその写真を見た。

 校庭に三人が並んでいる。

 父と母のあいだに結衣。

 そして、そのすぐ後ろに少年が立っている。

 旅行の写真よりはるかに近い。

 今度は顔も分かった。

 少し長めの前髪。

 丸い頬。

 大きな目。

 笑ってはいない。

 それでも恐ろしい顔ではなかった。

 ただ、ひどく寂しそうだった。

 由美にはそう見えた。

 玄関が開く音がして、直樹が駆け込んできた。

「見せて」

 スマートフォンを渡す。

 直樹は写真を見た。

 そのまま動かなくなった。

「知ってるのね」

 由美が言った。

「この子、誰なの?」

「知らない」

「嘘」

「知らないって」

「だったら、どうしてそんな顔するのよ」

「どんな顔だよ」

「今にも吐きそうな顔」

 直樹は返事をしなかった。

 その沈黙が答えだった。

「私に言えないこと?」

「そうじゃない」

「じゃあ言って」

「……まだ確かじゃない」

「三回も同じ子が写ってるのよ。しかも旅行先から家までついてきて、今度は学校。結衣に何かあったらどうするの?」

「だから結衣には見せるなって言ってるんだ!」

 直樹の声が大きくなった。

 二階で何かが動く気配がした。

 二人とも同時に口を閉ざした。

 しばらくして、階段の上から結衣が顔を出した。

「何かあった?」

 由美は無理に笑った。

「何でもないの。お父さんが会社で嫌なことあったみたい」

「俺のせいにするの?」

「あなたが大きな声を出したんでしょう」

「二人とも、喧嘩?」

「してない」

 夫婦の声が重なった。

 結衣は怪しそうに二人を見たあと、「大人ってすぐそう言うよね」と言い残して部屋へ戻った。

 直樹が小さく息を吐いた。

「……専門家に相談しよう」

「警察?」

「警察に写真を持っていって、幽霊かもしれませんって言うのか?」

「じゃあ、誰に?」

 直樹はしばらく黙っていた。

「テレビに出てる人がいるだろ。久世さんっていう」

     ◇

「この写真、少しお借りしていいですか」

 久世環は、タブレットに表示された三枚の画像を順に確認していた。

 高橋夫妻は相談室のソファに並んで座り、娘の結衣は学校へ行っている。

 直樹は来てからずっと落ち着きがなかった。

 由美はそれに気づいているらしく、夫が何か言いかけるたびに横目で確認していた。

 佐伯蓮も写真を覗き込む。

「同じ子ですね」

「そう見えます」

 環が答える。

「合成の可能性は?」

「学校の写真は担任の先生が撮ったものです。旅行は俺のカメラ、自宅は妻のスマホ。三台とも違います」

「データを確認してもいいですか?」

「もちろんです」

 蓮は写真データをパソコンへ移して確認を始めた。

 環は直樹へ視線を向けた。

「この少年に心当たりがありますね?」

 直樹の顔が強張った。

 由美が夫を見る。

「やっぱり」

「違うんです」

「何が違うの?」

「似てるだけかもしれない」

 環は急かさなかった。

 テーブルの上に麦茶を置き、直樹が自分から話すのを待った。

 沈黙に耐えられなくなったのは由美だった。

「久世さん、この人、写真を見るたびに様子がおかしくなるんです。私は何も知らない。知らないまま娘に何かあったらと思うと、それが一番怖いんです」

「そうですよね」

 環は静かに頷いた。

「でも、今はご主人を責めるより、まず少年が何をしようとしているのかを確かめましょう。写真だけを見る限り、結衣さんへ危害を加えようとしているようには、私は感じません」

「分かるんですか?」

「断定はできません。ただ、近づき方が少し変なんです」

 環は三枚の写真を並べた。

「最初は遠くにいた。二枚目では庭の向こう。三枚目ではご家族のすぐ後ろ。普通に考えると、だんだん距離を詰めているから怖く感じます。でも、誰に近づいているのかを見てください」

 由美が写真を見る。

「結衣……?」

「そうです」

 最初の写真でも少年は三人の中央よりやや結衣側にいる。

 二枚目は結衣一人の写真。

 三枚目では、結衣の真後ろ。

「この子は、あなた方ご夫妻ではなく、結衣さんを見ています」

 直樹が両手を強く組んだ。

「やっぱり……」

 由美が夫へ向き直った。

「何を知ってるの」

 直樹は顔を上げなかった。

「十一年前、由美と結婚する前のことなんだけど」

「うん」

「俺、あの湖の近くに住んでた時期がある」

 由美の表情が変わった。

「初めて聞いた」

「一年もいなかったから、わざわざ話すことじゃないと思ってた」

「この子と関係あるの?」

 直樹は写真を見た。

「昔、近所にいた子に似てる」

「名前は?」

「橋本悠真。たぶん、当時八歳だった」

「たぶんって?」

「亡くなってるんだ」

 由美が息を呑んだ。

「湖で?」

「違う。車の事故だよ」

     ◇

 直樹の話では、十一年前、仕事の都合で湖の近くの町へ一時的に住んでいた。

 借りていたアパートの近所に橋本家があり、一人息子の悠真は人懐こい子供だった。

「俺が車を洗ってると勝手に寄ってきて、手伝うって言ってホースで俺までびしょ濡れにするような子だった。別に親戚でも何でもない。近所の子。それだけだった」

「じゃあ、どうして今になって結衣についてくるんです?」

 蓮が尋ねる。

「それは……分からない」

 環は直樹の返事を聞きながら、写真をもう一度見た。

「事故について教えてください」

「俺が引っ越してから一年くらい後だったと思います。新聞で知りました。交差点で車にはねられて亡くなったって」

「事故現場は湖の近く?」

「いや、町の反対側です」

「では、今回旅行した場所で亡くなったわけではない」

「はい」

 蓮が腕を組む。

「心霊スポットの噂とは無関係っぽいですね」

「その可能性が高いですね」

 環は写真を指で拡大した。

「ただ、どうして旅行先で初めて写ったのか。それから、どうして結衣さんなのか。この二つがまだ分かりません」

 直樹が言う。

「久世さん、家を見てもらえますか」

「もちろん。ただ、その前に悠真君についてもう少し調べたいです」

「昔の知り合いに連絡してみます」

「お願いします」

 由美は夫を見ていた。

 環には、その視線に恐怖とは別のものが混じっているのが分かった。

 自分の知らない夫の過去が、突然死者の顔をして現れたのだ。

 簡単に受け入れられるはずがない。

     ◇

 高橋家を訪れたのは、その二日後だった。

 学校から帰った結衣も同席した。

「本物の久世環さんだ」

 結衣は環を見るなり目を丸くした。

「テレビで見たことあります。怖いトンネルに行ってた人ですよね」

「そういう紹介のされ方をすると、ずいぶん変な仕事をしている人みたいですね」

「違うんですか?」

 環は少し考えた。

「……あまり違いませんね」

 結衣が笑う。

 環も笑った。

 その自然なやり取りを見て、由美の表情が少し和らいだ。

 結衣には少年のことを詳しく話していない。写真に知らない子が写っているため調べてもらう、とだけ説明していた。

「結衣ちゃん、この男の子を見たことある?」

 環は三枚目の写真を見せた。

 結衣はしばらく見つめる。

「ないです」

「本当に?」

「たぶん。でも……」

「何か思い出した?」

「夢には出てきたかも」

 三人の大人が同時に結衣を見る。

 環だけが声を変えなかった。

「どんな夢?」

「湖に行った日の夜です。男の子が遠くから手を振ってたんです。でも怖くなかった。こっち来てって言われた気がしたけど、声は聞こえなくて」

「どこへ来てって?」

「分からない」

「最近も見る?」

「一回だけです」

「ほかに変なことは?」

 結衣は首を振りかけたあと、思い直したように言った。

「あ、写真」

「写真?」

「私の部屋にある昔の写真が、床に落ちてることがあります」

 由美が眉を寄せる。

「どの写真?」

「赤ちゃんのころのやつ」

「額が緩んでるんじゃない?」

「違うよ。机の上に置いてるアルバムの中の写真」

 由美の顔色が変わった。

「アルバムから出てるの?」

「うん。最初、お母さんが見たのかと思ってた」

 環が立ち上がった。

「見せてもらえますか」

     ◇

 結衣の部屋は二階の南側にあった。

 本棚には児童小説と漫画が並び、机の横には学校で描いた絵が貼られている。

 問題のアルバムは棚の中にあった。

 由美が開く。

 結衣が生まれてから一年ほどの写真が順番に収められている。

 病院。

 退院の日。

 初めて家へ帰った日。

 百日祝い。

 環は一枚ずつ確認した。

 そして、生後三か月ごろの写真で手を止めた。

「これです」

 写真には、若い直樹が赤ん坊の結衣を抱いている。

「何か写ってるんですか?」

 由美には何も見えない。

 環は写真を取り出した。

「この服」

 直樹の顔が強張った。

 赤ん坊の結衣が着ているのは、白い小さなシャツだった。

 胸元に青い船の刺繍がある。

「これ、どうしたの?」

 由美が夫へ聞く。

「あなたが買ったんだっけ?」

 直樹は長い間答えなかった。

「もらったんだ」

「誰に?」

「橋本さんから」

 由美の手が止まる。

「悠真君のお母さん?」

「結衣が生まれる少し前に、偶然連絡が来た。俺が結婚したのをどこかで聞いたらしくて。そのあと子供が生まれるって話をしたら、悠真が小さいころ着ていた服が残っているから、よかったら使ってくれないかって」

「どうして今まで言わなかったの?」

「中古の子供服をもらった、それだけだと思ったから」

「亡くなった子の服でしょう?」

「だから何だよ。服に罪はないだろ」

「そういう意味で言ってない!」

 由美の声が強くなった。

 結衣が不安そうに二人を見る。

 環はすぐに割って入った。

「続きはあとで話しましょう。結衣ちゃんの前で、今決めなくてもいいことです」

 由美は言葉を飲み込み、娘へ謝った。

「ごめんね。お父さんとちょっと話が食い違っただけだから」

「また喧嘩してる」

「してないよ」

「この前も同じこと言ってた」

 結衣は不満そうだったが、環が「少しお部屋を見せてもらってもいい?」と尋ねると、気持ちを切り替えた。

 環は部屋の中を歩いた。

 嫌な気配はない。

 空気が重いわけでもない。

 ただ、アルバムのそばに立つと、誰かが長い間そこに座っていたような感覚が残っている。

「悠真君は結衣ちゃんを怖がらせたいわけではなさそうです」

「じゃあ、何をしたいんでしょう」

 直樹が尋ねる。

「まだ分かりません。でも、服だけが理由ではないと思います」

 環はアルバムを見つめた。

「亡くなった人の持ち物を使ったから霊がついてくる、という単純な話なら、十一年も経ってから突然写真に現れる説明がつきません」

「じゃあ、旅行先に何かあった?」

「その可能性はあります」

     ◇

 三好真琴が久世相談室を訪れたのは、その翌日の午後だった。

 三十四歳のフリーライターで、地方紙の記者をしていた経験があり、古い新聞記事や土地の記録を探すことを得意としている。

「また急ですね。夕方までに調べてほしいって連絡が来たから、何事かと思いましたよ」

 真琴は大きめの封筒を机へ置いた。

「でも見つけました。橋本悠真君。十一年前、八歳で交通事故死。そこまでは高橋さんの記憶どおりです」

「ほかに何か?」

「あります」

 真琴が一枚の古い地方紙の記事を出した。

「事故の半年ほど前、湖で子供が溺れる事故が起きています」

 蓮が記事を読む。

「死亡事故?」

「いいえ。助かっています」

 記事には、当時四歳だった女児が湖畔の浅瀬で転倒し、深い場所へ流されたと書かれていた。

 偶然近くにいた八歳の少年が飛び込み、女児を岸まで引き上げた。

 少年の名前は掲載されていない。

 しかし真琴は、当時の消防広報の記録まで調べていた。

「助けた少年が橋本悠真君です」

 環が記事を見つめる。

「女の子の名前は?」

「個人情報なので記録には出ていません。ただ、家族が町外から来ていたという記述があります」

 そのとき、環のスマートフォンが鳴った。

 由美からだった。

『久世さん、すみません。今、大丈夫ですか』

「どうしました?」

『結衣の母子手帳を見てたんです。あの子、小さいころに一度だけ、あの湖へ行ったことがあります』

 環は息を止めた。

「何歳のときです?」

『四歳です』

 部屋の空気が変わった。

     ◇

 由美は覚えていた。

 六年前、家族三人で湖へ出かけた。

 結衣が水辺で転び、姿が見えなくなった。

 ほんの数十秒だった。

 だが由美にとっては、一生忘れられない数十秒だった。

「男の子が助けてくれたの」

 高橋家の居間で、由美は両手を組みながら話した。

「知らない子だった。気づいたら湖に入ってて、結衣を引っ張ってきてくれた。私、頭が真っ白になってて、名前もちゃんと聞けなかった」

 直樹は青ざめている。

「俺、その話……」

「したわよ。でもあなた、出張中だったし、結衣が無事だったから詳しく聞かなかったでしょう」

「じゃあ……」

 由美は古い記事を見た。

「この子が?」

 真琴が頷く。

「記録上はそうです」

「でも、悠真君はその半年後に……」

 直樹が言葉を失う。

 環は三枚の写真を並べた。

「これで、なぜ旅行先で最初に現れたのか分かりました」

 六年ぶりに同じ湖を訪れた。

 結衣自身は当時の事故をほとんど覚えていなかった。

 だが、悠真にとっては違ったのだろう。

「助けた子が大きくなって、また同じ場所へ来た。それに気づいたのかもしれません」

 由美は写真を見る。

「じゃあ、この子は結衣を連れていこうとしてるんじゃない?」

「私は違うと思います」

「でも、どんどん近づいてるでしょう」

 環は三枚目の写真を指した。

「よく見てください」

 父。

 母。

 結衣。

 少年。

 最初は結衣の後ろにいるようにしか見えなかった。

 だが拡大すると、少年の右手が分かった。

 彼は結衣へ手を伸ばしているのではない。

 背中を、そっと押していた。

「これ……」

 由美が声を詰まらせる。

「守ってる?」

「たぶん」

 環は答えた。

「六年前と同じように」

 直樹が顔を覆った。

「俺、あの子が結衣を助けたなんて知らなかった」

「悠真君も、結衣ちゃんがあなたの娘だとは知らなかったでしょうね」

「じゃあ偶然だったんですか」

「生きていたときには、そうでしょう」

 誰もすぐには言葉を続けられなかった。

 人間の縁は、生きている者が思うより奇妙な形でつながることがある。

 直樹がかつて近所で可愛がっていた少年。

 その少年が偶然、数年後に直樹の娘を救った。

 そして本人は、その半年後に亡くなった。

 父親も母親も、その事実を知らないまま六年が過ぎた。

 環は結衣の両親を見た。

「ただ、ひとつ確認したいことがあります」

「何ですか?」

「写真の距離です。悠真君は結衣ちゃんへ近づいている。それ自体は、私は悪い意味ではないと思います。でも、三枚目ではもうすぐ後ろにいる。次に写真を撮ったとき、どうなるのかを見ておきたいんです」

 由美の顔に不安が戻った。

「写真を撮るんですか?」

「はい。ただし、私も一緒にいます」

     ◇

 翌日の夕方。

 高橋家の庭に、家族三人が並んだ。

 撮影するのは蓮だった。

「笑ったほうがいいですか?」

 直樹が聞く。

「記念写真じゃないんだから、無理に笑わなくていいですよ」

「でも真顔で心霊写真を撮るのも嫌でしょう」

「確かに」

「二人とも、妙なところで悩まないでください」

 環が呆れた。

 結衣だけが楽しそうだった。

「久世さんも入らないんですか?」

「私はいいですよ。ご家族の写真ですから」

「でも四人になったほうが面白いのに」

「今回は三人で撮りましょう」

 蓮がカメラを構えた。

「撮りますよ」

 シャッターが切られた。

 一枚。

 二枚。

 三枚。

 蓮が画面を確認した。

 そして黙った。

「佐伯さん?」

 環が呼ぶ。

「……います」

 三人が集まる。

 写真には、高橋家の三人が写っていた。

 そして少年もいた。

 今度は、父と母の間。

 結衣のすぐ隣に立っている。

 だが、これまでとは違った。

 少年は笑っていた。

 結衣も、なぜか同じ方向を向いて笑っている。

「結衣ちゃん」

 環が尋ねた。

「撮るとき、誰か見えた?」

「ううん」

「じゃあ、どうして横を向いたの?」

 結衣は少し考えた。

「分かんない。でも、誰かに『大きくなったね』って言われた気がした」

 由美が口元を押さえた。

 環は写真を見つめた。

 少年の姿は薄かった。

 これまでの三枚より、はっきりと消えかかっている。

「もう一枚だけ撮りましょう」

 蓮がカメラを構えた。

 今度は環も家族の近くに立ち、少年がいた場所へ意識を向けた。

「悠真君」

 環は静かに呼びかけた。

「ありがとう。あのとき、この子を助けてくれたんですね」

 庭を夕方の風が通り抜けた。

「お父さんも、お母さんも、今やっと知りましたよ」

 直樹の目から涙が落ちた。

「ごめんな。俺、何にも知らなかった」

 結衣が父を見る。

「お父さん?」

「お前が小さいころ、この子がお前を助けてくれたんだ」

「この男の子?」

「ああ」

 由美も泣いていた。

「お母さん、ちゃんとお礼も言えなかった。あのとき、本当に何も考えられなくて……。ずっと、ありがとうって言いたかったの」

 結衣は写真の少年を見た。

「じゃあ、私も言う」

 庭の何もない場所へ向かって、少し照れたように頭を下げた。

「助けてくれて、ありがとう。私、今けっこう元気です」

 蓮がシャッターを切った。

 その写真には、もう少年は写っていなかった。

     ◇

「除霊って、しないんですね」

 帰りの車で、蓮が言った。

「何を祓うんです?」

 助手席の環は窓の外を見ていた。

「いや、まあ、そうなんですけど。テレビだと『霊能者が現場へ行く』ってなると、どうしても最後は何かやるじゃないですか」

「私はテレビの都合で死者を追い払う仕事をしているわけではありませんよ」

「またそれ言うと、ディレクターが困りますよ」

「困ればいいんです」

「先生、テレビの出演料で生活してる人とは思えない発言ですね」

「仕事だから何でも言うことを聞かなければならないわけじゃありません」

 環は少し笑った。

「それに、今日の悠真君は、初めから帰るつもりだったんじゃないでしょうか」

「どうしてそう思うんです?」

「写真に写った回数が増えるほど、近づいていたでしょう」

「はい」

「結衣ちゃんを連れていきたかったのなら、最後まで離れないはずです。でも、あの子は家族の中へ一度だけ入った」

 蓮は黙って聞いていた。

「自分が助けた子が、ちゃんと家族の中で生きている。それを確かめたかったのかもしれません」

「六年も経ってから?」

「死んだ人の六年が、生きている私たちの六年と同じ長さなのか、私には分かりませんよ」

 車は住宅街を抜けていく。

 しばらくして蓮が言った。

「先生、そういうときだけ霊能者っぽいこと言いますよね」

「どういう意味ですか」

「普段、相談室でスーパーの特売チラシ見てる人とは思えないなって」

「今日、卵が安いんです」

「ほら、台無し」

     ◇

 その後、高橋家の写真に悠真が写ることは二度となかった。

 由美は湖での事故について、結衣がもう少し大きくなったら詳しく話すつもりだという。

 直樹は昔の知人を通じて、橋本家へ連絡を取った。

 悠真の母親はまだ同じ県内に住んでいた。

 電話口で、直樹は長い時間泣かれたという。

 息子が誰かを助けたことは知っていたが、その子がどうなったのかまでは聞かされていなかったらしい。

 数週間後、一枚の写真が久世相談室へ送られてきた。

 高橋家と橋本家が、一緒に写っている写真だった。

 中央には結衣がいる。

 その隣で、悠真の母親が少しぎこちなく笑っている。

 写真の裏には、由美の字で短い手紙が添えられていた。

『今度は、誰も増えていませんでした。』

 環はそれを読んで笑い、相談室の棚へ写真を立てた。

「先生、それ、飾るんですか」

 蓮が尋ねる。

「いい写真でしょう」

「まあ、それはそうですけど」

「それに、誰も増えていませんから」

「その言い方やめてくださいよ。夜、一人でここに来られなくなる」

「大丈夫ですよ」

「何が大丈夫なんです?」

「今のところ、この部屋には私たち二人しかいません」

「今のところ、って付けましたよね」

 環は答えず、届いたばかりの郵便物へ手を伸ばした。

 相談依頼が三通。

 雑誌の取材依頼が一通。

 そして、地方のテレビ局から送られてきた封筒が一つ。

 開けてみると、番組企画書と一枚の写真が入っていた。

 写真に写っているのは、東北地方某県にある廃校だった。

 木造校舎は二十年以上前に閉鎖され、今では地元でも近づく者がほとんどいないという。

 企画書には赤字で大きく書かれていた。

『深夜零時を過ぎると、誰もいない放送室から校内放送が流れる。』

 蓮が肩越しに覗き込む。

「次のテレビの仕事、これですか?」

「そうみたいですね」

「俺、行かなくてもいいですよね」

「撮影スタッフでしょう」

「先生の付き添いになった覚えはないんですけど」

 環は写真をもう一度見た。

 校舎の二階、窓の一つに、人影のようなものが立っている。

 しかし環が気になったのは、その人物ではなかった。

 写真の裏側。

 誰かが鉛筆で、小さく一文だけ書いていた。

『四年二組のみなさん、教室へ戻ってください。』

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    第24話 死んだ犬が玄関を引っかく夜 若林家で十六年飼われていた犬のハルは、六月の終わりに死んだ。 雑種の雄だった。 柴犬よりひと回り大きく、茶色の毛に、胸元だけ白い毛が混じっていた。若いころは散歩へ連れていく人間を選ばず、リードさえ見せれば誰にでも尻尾を振ったが、十二歳を過ぎたころから長い散歩を嫌がるようになり、最後の一年は家の周りをゆっくり一周するだけで満足していた。 病気で苦しんだわけではない。 食べる量が減った。 寝ている時間が長くなった。 ある朝、家族が起きたときには、いつも使っていた居間の座布団の上で眠るように死んでいた。 家族四人で見送った。 火葬にも全員で立ち会った。「ちゃんと送れたと思ってたんです」 電話をかけてきた長男の若林颯太は、久世相談室でそう言った。 二十七歳。 都内の食品会社に勤めており、現在も両親と同居している。「ちゃんと、というのは?」 久世環が尋ねる。「もっと何かしてやればよかったとかはありますよ。最後の日、俺が残業で遅くなって、帰ったころにはもう寝てたし。でも家族みんなで火葬して、骨も拾って、写真も飾って」「後悔がないわけではないけれど、見送った実感はあった」「はい」 颯太の母・若林恵子も隣に座っている。 五十五歳。 膝の上には、ハルの写真を入れた小さなアルバム。「だから最初の晩は、空耳だと思ったんです」「玄関を引っかく音ですね」「はい」 恵子が頷く。「ハル、散歩から帰ると前足で玄関のドアを二、三回引っかく癖があったんです。外からカリカリって。私たちが鍵を開けるまで」 環は少し引

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    第23話 毎晩一段ずつ増える階段 長谷川由紀子の家の階段は、十三段だった。 少なくとも、二十八年間ずっとそうだった。 この家を建てた夫が亡くなったあとも、そこだけは変わらなかった。 一階の廊下から二階へ上がる、木製の直階段。途中に踊り場はなく、十三段を上がれば小さな廊下へ出る。右が夫婦の寝室、左が息子が使っていた部屋、その奥に物置がある。 見慣れすぎて、普段は段数など意識したこともない。 それなのに九日前の夜、由紀子は十四段目を踏んだ。 午前零時すぎだった。 台所の水を飲み、二階の寝室へ戻ろうとしたとき、途中で妙な違和感があった。 一、二、三。 何となく数えた。 十三。 そこで二階に着くはずだった。 ところが足の先には、もう一段あった。「……あれ?」 十四段目を上がる。 普通に二階の廊下へ出た。 眠かったのだと思った。 翌朝、改めて数えた。 十三段だった。「やっぱり寝ぼけてたのね」 そう思って終わるはずだった。 二日目の夜。 十五段。 三日目。 十六段。 それから毎晩、一段ずつ増えた。 朝になると十三段へ戻る日もあったが、六日目からは昼間も増えたままになった。 由紀子は定規まで持ち出した。 一段の高さ。 踏み板の奥行き。 一階から二階までの高さ。 どこも以前と変わらない。 それなのに数えると十八段ある。 息子へ写真を送った

  • 『その場所には、まだ誰かいる。――霊能者・久世環の心霊相談録』   第22話 眠ると、知らない町へ行く男

    第22話 眠ると、知らない町へ行く男 眠るたび、知らない町へ行く。 最初の夜、藤原慎吾は夢だと思った。 夢なのだから、それで当然だった。 目を開けると、見覚えのない商店街の真ん中に立っていた。 空は夕方だった。西の山際に太陽が沈みかけ、細い道路には長い影が伸びている。 八百屋の軒先には木箱に入った大根と白菜が並び、道路の反対側には赤い丸型ポストが立っていた。小さな電器店のガラスにはブラウン管テレビが何台も並び、店先の看板には、慎吾が子供のころですら見た記憶のない古い字体が使われている。 車は走っている。 人もいる。 ただし、何もかも古い。 昭和の町を再現した観光施設のようにも見えたが、妙に生活感があった。 洗濯物。 魚を焼く匂い。 自転車のブレーキ音。 子供を叱る母親の声。 映画のセットなら不要なものまで、すべてがそこにある。「どこだ、ここ」 慎吾はスマートフォンを探した。 ない。 財布もない。 ポケットには何も入っていない。 代わりに、自分が着ている服が違っていた。 寝る前はスウェットだった。 今は白いシャツに灰色のズボン。 靴も、いつ買ったのか分からない黒いスニーカー。「夢だな」 口にすると、少し安心した。 頬をつねった。 痛い。「夢って痛いんだっけ」 そこで目が覚めた。     ◇ 二日目。 また同じ町だった。 今度は、昨日立っていた商店街の入

  • 『その場所には、まだ誰かいる。――霊能者・久世環の心霊相談録』   第21話 葬儀に知らない女が来る

    第21話 葬儀に知らない女が来る 父の葬儀に来た女を、親族の誰も知らなかった。 焼香の順番を待つ列の、一番後ろに立っていた。 年齢は四十代後半から五十代くらい。黒いワンピースに真珠のネックレスという、ごく普通の喪服姿だった。 遺族席に座っていた黒田沙織が最初に気づいたのは、その女だけが遺影を見ていなかったからだ。 参列者は焼香台へ進み、遺影へ頭を下げ、それから棺のほうへ視線を向ける。 女は違った。 会場へ入ってきた瞬間から、ずっと棺だけを見ていた。 それも悲しそうにではない。 笑っていた。 口元へ、ごく薄い笑みを浮かべて。「……誰?」 隣に座っていた弟の浩二へ、沙織は声を落として尋ねた。「知らない。姉ちゃんの会社の人じゃないの」「違う」「親父の知り合いだろ」「お父さんの知り合いなら、あんたのほうが知ってるでしょう」「七十八の親父の知り合い全部把握してる息子なんかいないって」 兄妹が小声で言い合っている間にも、女の順番が来た。 焼香をする。 遺影へは、最後まで一度も目を向けなかった。 そして棺の横へ立つ。 父・黒田宗一の顔を覗き込んだ。 女の笑みが少し深くなった。 沙織は思わず立ち上がりかけた。 死者を前に笑っている。 それだけなら、泣きそうな顔がそう見えただけかもしれない。 しかし女は、棺の中の宗一へ向かって何かを囁いた。 沙織には聞こえなかった。 そのあと女は、遺族席へ歩いてきた。「ご愁傷さまでございます」

  • 『その場所には、まだ誰かいる。――霊能者・久世環の心霊相談録』   第20話 鏡の中の娘が、笑わなくなった

    第20話 鏡の中の娘が、笑わなくなった 鏡の中の娘が笑わなくなったのは、三週間前からだった。 最初に気づいたのは母親ではない。 九歳の娘本人だった。「お母さん、私、変な顔してる?」 日曜日の朝。 洗面所で歯を磨いていた高梨美緒が、隣で化粧をしていた母の遥香にそう尋ねた。「寝起きだからじゃない?」「そうじゃなくて。鏡の私」「鏡の私?」 遥香はファンデーションを塗る手を止めた。 鏡には、母娘が並んでいる。 遥香。 美緒。 どこにも変なところはない。「普通じゃない?」「でも、私笑ってるよ」 遥香は娘を見る。 美緒は確かに笑っていた。 前歯が一本だけ少し内側へ入った、いつもの笑顔。 ところが鏡の中の美緒は、笑っていなかった。「……え?」 遥香は目を擦った。 もう一度見る。 鏡の美緒は笑っている。「ほら、笑ってるじゃない」「今はね」「見間違いよ」「昨日もだった」 遥香は軽く流した。 子供の言うことだと思った。 それから一週間。 鏡の中の美緒は、少しずつ現実の美緒と違う動きをするようになった。 髪を結ぶとき、現実の美緒が右を向いているのに鏡の美緒は正面を見ている。 顔を洗ったあと、現実の美緒がタオルで目を覆っている間だけ、鏡の美緒が母親のほうを見る。 そして笑わない。 決定的だったのは、

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